「ハローキティ・ストア」イスラエル進出の背景を考える(10)

パレスチナの平和を考える会のニュースレター『ミフターフ』30号(2011年8月発行)に掲載された記事(著者・役重善洋)を転載します。一部、修正・追加をしています。(→連載第1回

〜「イスラエルの春」と反原発デモ、そして連帯運動の課題


この7月末から始まっている「イスラエルの春」と呼ばれる大規模な大衆行動は、これまでに述べてきたようなイスラエル経済の構造的危機を背景としたものである。新しい住宅法の成立に反対するフェイスブック上での呼びかけが起爆剤となり、8月6日には30万人規模のデモが行われ、テルアビブ中心部のロスチャイルド通りや各都市の公園などが、何千人もの市民の張ったテントによって占拠される状況が今も続いている。彼等は、住宅価格や物価の高騰、教育機会の不平等、財閥と政府の癒着などの是正を要求し、イスラエルネオリベラル路線の修正を求めている。

この規模の抗議行動は、おそらく1982年のピース・ナウによるレバノン戦争反対のデモ以来のことだと思われる。しかし、シオニスト左派のイデオロギーを中核にした当時のデモと比べ、今回のデモは、エジプト革命のときと同様、中心的な指導組織もなく、掲げられている要求内容にも相当の幅がある。一方で、軍事費削減にまで踏み込んだ主張もあれば、他方で、入植地の住宅の拡充を呼びかける右派まで紛れ込んでいるという。いずれにせよ、経済政策批判を中心とした大規模抗議行動という点においては、イスラエル史上初めての出来事だと言える。これまで、イスラエルにおける経済要求に関わる抗議行動といえば、パレスチナ系市民やミズラヒームによるものが多く、比較的簡単に鎮圧あるいは懐柔されてしまっていたが、今回のデモには、「中間層」の代表であるアシュケナジームが大量に参加しており、ここに、イスラエル経済の危機の深さとシオニズムイデオロギーのもってきた社会統合機能の低下を見ることができる。

とりわけ、ミズラヒームに代表される低所得層のユダヤ人が、これまで、リクード党政権のネオリベラル政策の犠牲者でありながら、その排外的ナショナリズムプロパガンダに追随し、同党をはじめとした右派政党の大きな票田となってきたことを考えると、反ネオリベラリズムが今回のデモの一つの結節点となっているということは、重要な意味を持つ。

現地からの様々なレポートに目を通す限り(たとえばオルタナティヴ情報センターのこの記事など)、デモのなかで、パレスチナ問題への言及はほとんどなく、参加者達が掲げる「Power to the People」「Social Justice」といったスローガンが、パレスチナ人との連帯につながる可能性は、現状において極めて低いと言わざるを得ない。しかし、少なくともその経済的要求は、パレスチナ人の解放闘争と根底においてつながっているのである。

こうした状況は、やはり80年代以降、アメリカとの同盟関係のなかで経済自由化を進め、とりわけ小泉改革によってネオリベラリズム路線を明確にしてきた日本の姿を思い起こさせずにはいられない。日本における階級的矛盾の一つのねじれた表現として、「在日特権を許さない市民の会」のようなヘイトクライム集団の登場を位置付けることは十分可能であろう。「在特会」は、「キリストの幕屋」を含むところの旧来の右翼が推進してきた「新しい歴史教科書をつくる会」などの排外的歴史認識を忠実に引き継ぎながらも、何ら根拠のない「在日特権」という妄想的表現にこだわっているところに一つの特徴がある。それは、既存の社会構造のなかで「損をさせられている」という彼ら自身のルサンチマンでもあり、また、そうした漠然とした社会的不公平感の中に、民族排外主義拡大の潜在的な資源を見出しているのだと言える。

残念ながら日本では、新自由主義政策に対する大衆的な闘いは「イスラエルの春」の段階にさえも至っていないが、3・11以降、各地で精力的に取り組まれている脱原発デモのなかに、それと共通した性格を見出すことは難しくない。ツイッター等のSNSを通じて、初めてデモに参加するという若者も少なくなく、ヴィジュアル的にも、確実に以前のデモとは異なり、脱原発を中心に据えつつも、創出された「解放空間」そのものを楽しむという要素が大きくなっている。デモはまじめに頑張って、その後、飲み屋でリフレッシュ、解放されるという伝統的サラリーマン・モデルとは若干異なる。現在の脱原発デモは、ネオリベラリズムによって鼓舞されてきた、個人を抑圧し、差別と格差を拡大再生産する成長モデルに対して根底的な異議申し立てを表現していると見ることは可能であろう。しかし、そうした社会矛盾に対する新しい抗議の表現形態において、原発の利権構造の背景に厳としてある、核武装を望む排外的ナショナリズムという次元にまで迫ることができるのか、という課題はやはり付いて回らざるを得ない。

パレスチナ解放闘争が世界に向かって呼びかけている「連帯」を日本においてかたちにするということは、論理的にも倫理的にも日本社会の根底的な変革という課題を含まざるを得ないのである。